倉敷美観地区の中心地である倉敷川畔と大原孫三郎について書いてみました。
倉敷川沿いの街並みを堪能したのと、後日、気になった大原孫三郎について書きました。倉敷美観地区は、景観だけでなく、大原孫三郎という実業家のゆかりの地でもあります。
商店街を経由して、美観地区に入ったため、一番なじみのある倉敷川沿いの景観を見るのが一番後になりました。遠回りしましたが、ようやく倉敷川に到着しました。着いた後の感想としては、写真と同じどおりの景色だということです。白壁の建物、倉敷川、川沿いの柳並木が、江戸時代から明治時代の雰囲気をうまく醸し出しています。
当日は、たくさんの観光客で、にぎわっていました。特に関西方面の方々が多く来ていたせいか、関西弁を耳にすることが多かったです。家族連れの方や、カップルの方などの会話を耳にすると、ほとんどが関西弁でした。倉敷美観地区は、関西の方にとって定番の観光地なのかもしれません。
倉敷川沿いには、白壁の町屋や土蔵だけでなく、いろいろな施設やお店もあり楽しめます。もちろん歩いているだけでも、十分楽しめます。美観という言葉にふさわしい風景ですので、つい、何枚も写真を撮りたくなります。
倉敷川沿いを歩いていると、大原美術館がありました。
大原美術館は、1930年大原孫三郎により、日本初の私立の西洋近代美術館として設立されました。大原美術館の本館は、木造ではなく、ローマ神殿風建築と言われています。倉敷美観地区は、和風の建物が多い中、西洋を意識した建物があると、何か違和感がある気がしますが、そう感じさせないところが、不思議なところです。
大原美術館の中に入ろうと思いましたが、関西から来た観光客らしき方の
A:「全部見るのに何時間くらいかかる?」
B:「1回入ったことあるけど、1時間くらいかかったでえ」
という会話を耳にして、時間がかかるようなので、今回は美術館内に入るのはやめようと決めました。私は、美術に関しての知識もありませんし、このあと、岡山後楽園に行く予定にしていたこともあったからです。
後日、いろいろと調べてみると、美術館より、大原孫三郎という人について興味を持つようになりました。
大原孫三郎は、父が始めた倉敷紡績を引き継ぎ、その後、倉敷絹織(くらしきけんしょく)(現クラレ)を設立します。その他、中国電力、倉敷中央病院、3つの研究所などを設立し、中国銀行の初代頭取に就任するなど実業家として数々の実績を残した方です。
大原孫三郎という方は、どういう人なのか。それが知りたくて、私は、城山三郎著「わしの眼は十年先が見える」を購入して読むことにしました。(色の枠内は簡単ではありますが、本の感想と要約になります。)
読んで、印象に残ったことは2つあります。1つは、孫三郎が東京での学生時代、大金持ちの息子だということを利用して、友人面した取り巻きの人からお金を使われたり、挙句の果てには高利貸しにまで手を染めて、借金が膨らんでしまったという失態を犯してしまったことです。
そして、もう一つは石井十次との出会いです。石井十次(1865~191 4)は、1887年(明治20年)に岡山県岡山市に日本で最初の孤児教育会(孤児院)を創設した方です。大原孫三郎との出会いは、1898年(明治31年)になりますので、孤児院創設から11年後になります。石井十次と出会ってからは、お互い心友になり、大原孫三郎は、石井の孤児院の活動を資金面からバックアップするようになります。それだけでなく、大原孫三郎の事業に対する考え方にも、石井十次の考え方は影響を与えます。
大原孫三郎が、1906年倉敷紡績の社長に就任してから最初に行ったことが、役員賞与を減らし、株主配当も減らして、寄宿舎の社宅を改築したことです。今の時代では、役員賞与と株主配当を減らしてまで行うことかと、専門家から批判されるかもしれませんが、働いている人たちに生き生きと暮らしてもらいたいという思いから来たと思われます。
大原孫三郎は、石井十次が孤児院を充実させるためにいろいろと行ってきたことや考えなどを、企業の中で生かしていました。私は、本を読んでそのことを強く感じました。
大原美術館の建設も、石井十次との出会いで得たものを延長した感じがします。
大原美術館を建設するきっかけになったのは、友人で、画家でもある児島虎次郎の死です。美術館の建設は、児島の絵画と、児島がヨーロッパで買い集めた絵画などを常時展示して見せることが目的の1つです。美術館の着工当時は不況であったため、反対が強かったが、孫三郎が耳を貸さず、建設を強行しました。これは、孫三郎が児島虎次郎を弔いたかったことから来たと私は思いました。
そして、1930年、日本初の私立の西洋美術館として大原美術館は完成し、開館しました。
大原美術館は大原孫三郎と児島虎次郎との友人としてのきずなの深さがあってこそのものだと思います。
大原孫三郎は、様々な施設を建てましたが、お金の使い方に関していえば、有能な方ではないかというのが、本を読んで思ったことです。若いころ、お金の使い方で失敗したことを生かしている気がしました。
今回、倉敷川畔を訪ねて、残念に思ったことは、ただ、景観を楽しんだだけだったということです。私が、もし、大原孫三郎のことを知っていれば、関係した施設などを訪ね廻ったと思います。ですので、もし、倉敷美観地区を観光で訪ねるならば、大原孫三郎のことを調べることをお勧めします。もちろん、景観だけでも十分に楽しめますが、半日や1日使って、倉敷美観地区を観光したいのであれば、必要なことだと思います。
私は、いろいろと倉敷川の景観などを十分に味わったので、倉敷美観地区を後にすることにしました。
中央通りを歩いて倉敷駅に向かう途中に、20人くらい行列を作っているみそカツのお店ががありました。このお店も、後日、テレビで紹介されていたので、地元では有名なお店です。これも待つ時間がなく、通り過ぎることにしました。
倉敷は、結構いろいろあるので、もし、機会があれば、時間をかけて回りたいと思います。
この後、私は、倉敷駅に行き、山陽本線の各駅停車で岡山駅に行きました。